国指定文化財

更新日:2023年12月07日

建造物(国宝)

金剛輪寺本堂

  • 員数 1棟
  • 所在地 松尾寺、金剛輪寺
  • 時期 室町前期
  • 指定年月日 明治31年12月28日
金剛輪寺本堂の写真

本堂「大悲閣」は、入母屋造り(いりもやづくり)の檜皮(ひわだ)葺(ぶき)で七間四面の豪壮な建物です。組物は和様の出組としています。全体の様式は和様となっていますが、一部唐様が混入します。須弥壇(しゅみだん)金具に「弘安十一年云々」の銘があり、「文永弘安の両役に鎌倉の北条時宗が近江守護佐々木頼綱に命じて近江国中の祈祷寺社に元軍降伏の祈願を修せしめ元軍が敗北した。そこで、守護佐々木頼綱は本堂を再興した」という寺伝が伝わっています。しかしながら、本堂の建築年代については、その建築様式から室町時代前期が想定されています。昭和39年、東京オリンピックの折には、日本建築を代表する建物として精巧な10分の1の模型が制作、東京国立博物館の記念展で展示され、世界の人々に紹介されました。

建造物

豊満神社四脚門

  • 員数 1棟
  • 所在地 豊満、豊満神社
  • 時期 鎌倉後期
  • 指定年月日 明治35年4月17日
豊満神社四脚門の写真

豊満神社は、神功皇后が三韓を征伐した際に、祭神が軍旗の守護神として皇后軍を導いたと伝えられ、源頼朝をはじめ多くの武将が社地内の竹を旗竿に用いて戦に望んだとの言い伝えがあります。 豊満神社四脚門は、社蔵文書に「惣門築地-元亨三年-」(1323年)とあり、鎌倉時代後期に造られたと考えられています。入母屋造(いりもやづくり)で、太い柱と柱上の組物・垂木等の細やかさが対照的であり、軒を強く反らせた屋根には桧皮(ひわだ)、こけら板を交互に葺く桧皮(ひわだ)、こけら、鎧葺(よろいぶき)が用いられています。豊満神社四脚門は、令和3年度に屋根などの修理工事が実施されました。

大行社本殿

  • 員数 1棟
  • 所在地 松尾寺、大行社
  • 時期 室町前期
  • 指定年月日 明治44年4月17日
大行社本殿の写真

金剛輪寺の南側に「麓」とも呼ばれる松尾寺(南)の集落があります。その集落の鎮守(ちんじゅ)社が大行社(だいぎょうしゃ)で、金剛輪寺一山南門の守護として勧請されたものです。現在の大行社本殿はもと金剛輪寺本堂の傍らにあったものです。明治10年に以前の大行社が焼失した後に当地に移されました。檜皮(ひわだ)葺(ぶき)三間社(さんげんしゃ)流造(ながれづくり)で精巧な蟇股(かえるまた)彫刻が見事です。修理の時発見された墨書から文安四年(1447)の建築と認められました。

金剛輪寺二天門

  • 員数 1棟
  • 所在地 松尾寺、金剛輪寺
  • 時期 室町後期
  • 指定年月日 昭和36年3月23日
二天門2

二天門は、室町時代後期に造られた建造物で、重要文化財に指定されています。令和5年度に屋根などの修理工事が実施されました。

金剛輪寺三重塔

  • 員数 1棟
  • 所在地 松尾寺、金剛輪寺
  • 時期 室町前期
  • 指定年月日 昭和47年5月15日

彫刻

木造阿弥陀如来坐像

  • 員数 1躯
  • 所在地 松尾寺、金剛輪寺
  • 時期 鎌倉前期
  • 指定年月日 大正10年4月30日

木造阿弥陀如来坐像

  • 員数 1躯
  • 所在地 松尾寺、金剛輪寺
  • 時期 平安
  • 指定年月日 大正10年4月30日

木造十一面観音立像

  • 員数 1躯
  • 所在地 松尾寺、金剛輪寺
  • 時期 平安
  • 指定年月日 大正10年4月30日
木造十一面観音立像の写真

金剛輪寺本堂後陣に安置されています。金剛輪寺には平安仏が四身伝わっていますが、その1点です。檜材一木造りの素地仕上げ。後頭部にはノミ跡を顕著に残しており、このことは本像の性格等を考えるうえでも興味深い。像高171.5センチメートルの等身となる堂々とした尊容です。本像が安置されています厨子(ずし)の扉には寛政3年に還座したとの墨書がありますが、この厨子が当初から本像のものであったかどうかは不明です。

木造不動明王立像・毘沙門天立像

  • 員数 2躯
  • 所在地 松尾寺、金剛輪寺
  • 時期 鎌倉前期
  • 指定年月日 大正10年4月30日

木造四天王立像

  • 員数 4躯
  • 所在地 松尾寺、金剛輪寺
  • 時期 鎌倉前期
  • 指定年月日 大正10年4月30日

木造慈恵大師坐像

  • 員数 1躯
  • 所在地 松尾寺、金剛輪寺
  • 時期 鎌倉後期
  • 指定年月日 大正10年4月30日

木造慈恵大師坐像

  • 員数 1躯
  • 所在地 東京国立博物館勧告
  • 時期 鎌倉後期
  • 指定年月日 大正10年4月30日

木造不動明王二童子像

  • 員数 3躯
  • 所在地 松尾寺、常照庵
  • 時期 鎌倉
  • 指定年月日 大正10年4月30日

木造阿弥陀如来坐像

  • 員数 1躯
  • 所在地 松尾寺、常照庵
  • 時期 鎌倉
  • 指定年月日 大正10年4月30日

木造大黒天半跏像

  • 員数 1躯
  • 所在地 松尾寺、明壽院
  • 時期 平安
  • 指定年月日 大正10年4月30日
木造大黒天半跏像の写真

明壽院(みょうじゅいん)護摩堂(ごまどう)に安置されています。大黒天としての古い形である武装の戦闘神をあらわしています。鎧(よろい)を身につけ左手には宝棒を握り右手に袋を執ります。俗に武装大黒天と呼ばれますが、この種の大黒天では最も古様のものです。

木造聖観音立像(附像内納入品) 木造地蔵菩薩立像

  • 員数 2躯
  • 所在地 岩倉、仏心寺
  • 時期 鎌倉前期(貞応元年・貞応3年)
  • 指定年月日 大正10年8月8日(平成17年6月9日追加)
木造地蔵菩薩立像の写真

地元ではむしろ「矢取(やとり)地蔵(じぞう)尊(そん)」の名で親しまれています。『今昔物語』巻十七にその縁起説話が収められています。「当地安(あ)孫子(びこ)郷が隣郷から攻撃を受けた時に、多勢に無勢、矢を射尽くして窮地に陥った検非違使平(たいらの)諸道(もろみち)の父を小法師が突如戦場に現れ、危機を救った。この小法師が矢取地蔵の化身であった。」というものです。この合戦が宇曽川をはさんでの用水争論であるところも興味深いものがあります。 右手には通常の通常の錫杖ではなく、その名が示すとおり矢を持っています。本像の特徴は彩色の保存状態の良さがあります。特に衲衣(のうえ)や袈裟(けさ)において、白、朱、緑青および淡緑などの色を用い宝相華(ほうそうげ)文様等を描いています。また、袈裟は截金(きりかね)を使用して幾何学模様を表しています。さぞかし当初は華麗なお姿であったものでしょう。

工芸品

銅磬

  • 員数 1面
  • 所在地 県立琵琶湖文化館寄託
  • 時期 鎌倉
  • 指定年月日 大正14年4月24日

金銅透彫華鬘

  • 員数 3枚
  • 所在地 松尾寺、金剛輪寺1枚・東京国立博物館寄託1枚・県立琵琶湖文化館寄託1枚
  • 時期 鎌倉
  • 指定年月日 平成20年7月10日
金銅透彫華鬘の写真

華鬘は、仏堂内の長押などに懸けて仏堂を飾る団扇型の荘厳具です。一枚の団扇形銅板に蓮華唐草文を全面に切透したものに、丹念な蹴彫(けりぼり)でその細部を表わして、中央に総角(あげまき)を鋲止めし、周囲を覆輪(ふくりん)で飾ったものです。釣鐶座(つりかんざ)は大小2枚の猪目透かしの四葉形を重ね、切子形の紐を取り付けている。鎌倉時代の落ち着いた華鬘で優品です。

名勝

金剛輪寺明壽院庭園

  • 員数 10,018.55平方メートル
  • 所在地 松尾寺、明壽院
  • 時期 江戸
  • 指定年月日 平成2年8月4日(令和5年3月20日追加)
明壽院の写真

池泉観賞式の庭園です。明壽院書院南側の庭は、書院から観賞できるようになってようになっています。東側の山畔を利用しそこに多数の石垣をして滝を落し、池泉には石橋を三橋架け、山畔に宝篋印塔を配しています。 書院東側の庭は、池泉に中島を設け、蓬莱島であるとともに亀島とします。東部山畔の滝の石組は鶴石組を兼用しています。庭に立つ護摩堂や茶室「水雲閣」とともに、江戸時代に大規模に整備されたと考えられます。水雲閣は、慶応4年、当地で官軍草莽隊である赤報隊が結成されたおり、密談の場となったところと伝えられており、当時の畳が今も残っています。庭園内の月見亭は、建物の棟札から大正5年4月23日に上蚊野の水野銀蔵によって建立されています。明治30年の古絵図には既に建物が存在することから、大正5年以前からそこに建物はあったようです。令和5年には名勝庭園の追加指定がされています。

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