金剛輪寺下倉米銭下用帳

更新日:2019年12月25日

焼け焦げた金剛輪寺下倉米銭下用帳

 金剛輪寺下倉米銭下用帳(No.22)

古第1号

1.部門

古文書

2.所在地

愛荘町松尾寺 金剛輪寺(愛荘町立歴史文化博物館寄託)

3.所有者

金剛輪寺 代表役員 住職 濱中 光礼

4.時代

室町時代(文明18年〈1486〉から弘治3年〈1557〉)

5.内容

本史料は文明18年(1486)から弘治3年(1557)にわたって記録された金剛輪寺「下倉」の支出の記録、いわゆる算用状である。支出内容は1.近隣の土豪、地侍、国人やその従者への支出、2.近隣の土豪、地侍、国人の諸要求、諸事に対する支出、3.金剛輪寺からの使いの旅費、4.衆会、談合の費用、5.諸堂の修理や近隣の土豪、地侍、国人の要求による番匠・人夫などの費用、6.仏事・年中行事の雑事を行う者たちにかかる経費など多岐にわたり、米と銭の二種類がそれぞれ独立した形で記録されている。『金剛輪寺史伝』によると、昭和30年代前半には金剛輪寺土蔵にあったことがうかがえるが、昭和52年(1971)の本坊火災により、その大半が罹災し、周縁部が炭化した。紙片のなかで最も残存率の良いものでも本紙全体の7割程度を残すのみにとどまり、最も悪いものは縦横約3センチメートルを測り、墨付きの見られないものもある。金剛輪寺下倉米銭下用帳はその記録時期からおよそ4期に分類することができる。第1期は文明18年(1486)から延徳年間(1489~1492)である。長享元年(1487)に室町幕府第9代将軍足利義尚が将軍としての実権の掌握と寺社本所領の回復を目的として六角高頼を征伐するために動座した。義尚は長享3年(1489)に鈎の陣において没しているため、本懐を遂げることができなかったが、延徳3年(1491)、義尚の跡を継いだ将軍足利義材は再び六角高頼の征伐に動き出した。第1期はまさにこの時期のものとなり、9紙が残る。第2期は、明応4・5年(1495・1496)で、20紙が残る。美濃守護職土岐氏の家督争いに端を発した船田合戦が起こり、近江や越前など近隣諸国を巻き込んで繰り広げられた時期である。第3期は北近江における浅井氏の支配が確固たるものになるなか、天文4年(1535)の京極氏家臣である多賀貞隆の反乱を端緒として浅井氏と六角氏の間で合戦が生じた時期のもので、37紙が残る。最後の第4期は弘治元年から弘治3年(1555~1557)である。弘治3年(1557)の六角義治の 元服、観音寺城の石垣工事関連の記事も見られ、六角義賢が伊勢侵攻を行って柿城を落とした時期でもあり、27紙が残る。「下用帳」という史料の性格上、記述内容から直接意味をくみ取ることは困難である。しかし、その行間からは動乱の時代の緊迫感とともに日常の寺院経営の姿が見て取れる貴重な史料と言える。

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